ベルリンの街の中でも賑わっている「Zoologischer Garten」駅(通称、ズー駅)を出ると、比較的すぐに「Kaiser Willhelm Gedachtniskirche in Berlin (カイザー・ウィルヘルム教会)」が視界に入る。
美しいのか美しくないのか、鑑賞する場所によって感想は異なってくる。
それもそのはずだった。
1888年に亡くなったドイツの皇帝、ウィルヘルム1世を追悼して建てられたものだという。1895年に完成したが、1943年のベルリン大空襲によって壊れた。ただ、ある程度の修復はなされ、現在は時計台と記念ホールとして使われているようだ。
この近辺は、実に賑やか。日本人の多くはこのあたりに宿を取るようである。ただ、ショッピングには楽しいが、ヨーロッパ特有の佇まいを感じたいならこのあたりへの宿泊はお勧めしない。
2009ドイツ紀行
駅でいうとどのあたりになるのか分からないが、ポツダム広場(Potsdamer Platz)からブラブラ歩いていると、二番目に長く残っているのがここではないかと思われる「ベルリンの壁」が目に飛び込んできた。
「East Side Gallery」と違ってなんのペイントも施されておらず、つまりは20年前に崩壊した時そのままで残されているのではないかと思われる。
「崩壊」(Mauefall)という言葉はものや事象が壊れたことによってそこにあった正なるものが崩れるような印象をもたらすが、ことベルリンの壁に至ってはこれによって多くの人々がごく当たり前に生きる幸せを取り戻した。当時の東ドイツ政府のスポークスマンの(ああ勘違い発表)が元で崩壊するに至った。この御仁、推測するに、イケイケドンドンな性格をしていたんじゃなかろうか(笑)。
ベルリンを走る地下鉄の車窓には、「Brandenburger Tor(ブランデンブルク門)」が描かれている。
2009年11月9日、ベルリンの壁崩壊から20年を迎えた。
「Potsdamer Platz(ポツダム広場)」は駅名にもなっている広場である。かのポツダム宣言が行われた場所ではない。ポツダム宣言はベルリンの西南にあるポツダムで行われた。それは駅名でいうなら「Potsdam Hbf」である。
このポツダム広場はベルリンの中でも近代ビルによって都会化した地域で、国際三大映画祭が開催される「ベルリン国際映画祭」もここで行われる。上の写真は、今年がベルリンの壁が崩壊して20年ということで、壁の破片や当時の写真などが展示されていた場面である。
このポツダム広場はベルリンが東西に分断された時、アメリカ、イギリス、ソ連軍の、それぞれの占領地域の境界という何ともややこしい地点となった。そしてその境界線上に、ベルリンの壁がつくられた。
ベルリンに残っている「ベルリンの壁」はもはやとても少ない。が、この広場からブラブラ歩いていると、実に“生々しい”ベルリンの壁に出くわした。続きは明日。
ブランデンブルク門前に広がる、「Pariser Platz(パリ広場)」。ベルリンが東西に分断されていた頃の暗鬱な雰囲気は微塵も残っておらず、観光客で賑わっている。この案内板の上にある熊のマークは、ベルリンの市章である。
門の上部にある「女神ヴィクトリアと四頭立ての馬車」が向いている方向がパリ広場で、かつて東ベルリン側であった。反対側に伸びているのは「6月17日通り」である。東ベルリンで起きた反政府デモが鎮圧された日である。
ブランデンブルク門のあたりには、観光客用のこんな可愛い自転車が。
自転車王国(?)ベルリンには、こんなにおもしろい自転車もある。家族みんなで楽しめる。
もちろん、欧州の観光地にはつきものの馬車も。
パリ広場には、「Hotel Adlon Kempinski Berlin」ホテルがある。五つ星ホテルで、当時の皇帝ウィルヘルム二世の希望によって1907年に建てられた。1945年に大規模な火災があり、最終的に1984年に取り壊されたが、東西ドイツが統一されたのちの1997年、国民の願いにより再建されたという。泊まりたかったけど、一泊5万円。一人で泊まるには高過ぎる(笑)。
このホテルを見てあらためて感じたのが、欧州は歴史や調和をとても重んじていること。だからこのホテルを再建するにしても「再現」の形で建設したし、周囲の建物にしても新しいものであっても外観も高さも調和が保たれている。ドイツは欧州の中でも比較的、近代的な建物が多いとされるが、だから違和感を感じないし、美しい。
街灯一つとっても欧州のエスプリが効いているし、やはり周囲と調和が保たれている。
「Brandenburger Tor(ブランデンブルク門)」は、パリ広場に面して建つベルリンのシンボルだ。1791年建立。砂岩で造られた、いと美しき門である。壁面にある彫刻が芸術品としての価値をなお一層、高めている。
ベルリンはその昔、城壁に囲まれた都市であったが、いずれその城壁が取り壊されていったなか、18あった門のうちただ一つ保存された門がブランデンブルク門である。
この門が完成した直後にベルリンはナポレオン・ボナパルトに征服され、そののちナポレオンはこの門の上部に凛として立つ「ヴィクトリア像」をフランスへ持ち帰ってしまった。イタリアでもそんなことしてたな、ナポレオンくん。
このヴィクトリア像がベルリンに戻ってきたのは、ナポレオンがウォーターローの戦争に破れ、プロシャ軍がパリを占領したのちである。広場は「パリ広場」と呼ばれるようになり、ヴィクトリア像が手にしていた杖には勝利を記念した十字紋章が設置された。見えますかな。
ただしこの十字紋章、第二次世界大戦後には取り外されてしまった。
現在のパリ広場側は東西に分断されたベルリンの東ベルリンにあたり、ヴィクトリア像はその手に平和の象徴を示すオリーヴの枝を持たされたそうだ。掲げるのが十字の紋章に戻ったのは、ペルリンの壁が崩壊したのちである。
なお、第二次大戦後のベルリンが東西に分断された頃、このブランデンブルク門のすぐそばを東西の境界線が走っており、「ベルリンの壁」が造られたあとそれまで可能であった東西の往来はできなくなってしまった。
この美しい壁を哀しい思いで見上げていた東ベルリンの住民たちの心中はいかばかりだったか。
現在はパリ広場の反対側は緑豊かな通り(6月17日通り)になっているが、当時の写真を見ると草一本ない地面が広がるばかりでそのあまりの殺風景さが心まで冷え冷えとさせるようだった。
「女神ヴィクトリアを乗せた四頭立て馬車」
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