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Articles & Photographs by YUKA ASHIYA                                   

カンボジア旅行記2008

Articles & Photographs by YUKA ASHIYA

カンボジアで受けた親切

P5081295アンコール・ワットから始まった今回の遺跡巡り。実をいうと、アンコール・ワットを訪れた時、予測していたほどの感動はなかった。それはアンコール・ワットがどうのということではなく、日本にいながらにしてあまりにもたくさんのアンコール・ワットの写真や映像を観て来たからだろう。それら我々の目に入るものは当然、プロのカメラマンたちが撮ったなかでも優れているもので、だから実物を観てさほどの感銘を受けなかったに違いない。それが証拠に、ほかの遺跡では多々、感じるものがあった。 また、これから行かれる方にご提案しておきたいが、彼の地にはほかにもたくさんの遺跡がある。カンボジアにはまた新たに世界遺産に指定された遺跡もある。が、あまりに遺跡ばかりを観すぎると、やはり感動が薄れるし、となると、せっかく観たにも関わらず、記憶から飛んでしまうものも出てくるだろう。慎重に検討して、せいぜい5カ所程度に絞ることをお勧めしておきたい。 P5111438これは「スバエク・トーイ」という、影絵芝居。シェムリアップは、カンボジアの影絵の発祥の地でもある。内戦で中断していた時期もあったようだが、復活。わたしが観たこれは街中のレストランでのもので、彼の地では「スバエク・トム」という屋外での大型影絵芝居があるそうだ。それは毎日行われているわけではないので、観たい人は事前に問い合わせたほうがいい。 P5121190さて、今回の旅で最も印象に残っている人は、トゥクトゥクのドライバー、ソバーンさんだ。宿泊したホテルの前に土産物店があり、その前にあるトゥクトゥクの待機所にいた人で、わたしがトゥクトゥクを所望した時、ホテルのボーイがそちらへ手を挙げて、たまたまやって来たのが彼である。以降、わたしは全ての移動を彼に依頼した。 まず、料金からして誠実だった。海外で料金交渉して乗るものは最初はふっかけられるのがオチなので、拍子抜けするほどだった。もちろん、すぐさま彼にお願いすることにした。 次に、行き先に関してわたしの持ち時間を考慮してくれたこと。こことここへ行きたいなら、ここからは何時までに出て来たらいいなど、現地の人でなければ分からないことをきちんと説明してくれた。つまり、安請け合いするのではなく、こちらの希望がちゃんと叶うように取りはからってくれたのだ。 最もびっくりしたのは、翌日の早朝に日の出を観に行きたいにも関わらず計算を下手したわたしは手元の現金(US$またはRIEL)が不足していることに夜になって気がついた時のこと。彼は、翌朝の支払いは帰ってきて銀行が開いてからでいいという。しかも、「今夜も必要なのではないか。貸してあげようか」という。もちろん、それまでの数日間で信頼関係が築けていたから言ってくれた言葉であろうが、もしわたしが悪い人間だったらどうするのかと驚いたし、そんな人のいい彼が心配にもなった。お礼を言いつつ、丁重に断った。 彼の人柄をさらに感じたのは、ある遺跡の帰りだった。遺跡の外で待っていた彼のもとへ行くと、物売りの子供たちがわんさかやってきて、わたしは笑いながら対応していたのだが、あまりにもくどかった彼女たちに、彼は何かしらクメール語(カンボジア語)で諭してくれて、彼女たちはおとなしくなった。おそらく、「あまりしつこくするな」という意味のことを言ってくれたのだろうと思う。それでも笑っていたわたしに彼女たちは再び「これ買って」といろんなものを、さきほどよりは遠慮がちに差し出してくる。わたしは根負けして、竹の笛を購入した。 ただ、ここでわたしは失敗した。相手が「1$」と言っていたのに、あまり使う事のなかったカンボジア・リエルを減らしたくて、だけどその時、計算間違いをして1$の倍の8000リエルで交渉してしまったのだ。女の子はとても喜んだ。その笑顔を見て、わたしも嬉しかった。その失敗に気づいたのはトゥクトゥクが走り出して彼女たちの姿が見えなくなってからだった。わたしは「あ!」と大きな声を上げた。その声に、彼はバイクを走らせながら横顔を見せて、ただ頷いた。 受け取り方は人それぞれだろうが、わたしは彼を余計なことを言わない人だという捉え方をする。少女たちの生活を知っている彼は、少女らの商売がうまくいこうとしているのを邪魔しなかったし、バカな失敗をしたわたしを嘲笑することもなかったからだ。ひとつ、学ばせてもらったように思う。 P5111445そんな彼のトゥクトゥクが、ある時故障した。チェーンが外れてしまってどうにも運かせず、修理してくれる場所まで歩かざるを得なかった。謝る彼と一緒に歩き始めたわたしだったが、修理場所ははるか彼方。すると、わたしの横に1台の車が止まった。女性の二人組で、「故障したのなら、あなたをその修理場所まで送ってあげる」と言われた。相手が男性なら断ったろうが、女性だけにわたしは甘えることにした。それでも、慣れた土地ではないだけに少々の不安を抱きながら。しかしとても朗らかな人柄のその女性たちは送ってくれただけでなく、楽しい会話まで展開してくれて、そのうえドラゴンフルーツまでくれた。忘れられない親切の一つである。ちなみに、車を降りる時になって判明したことだが、わたしが宿泊したホテルのスーベニールショップのオーナーで、お互い不思議な縁を感じたものだ。 P5111419そして、その車を降り、ソバーンさんを待っていると、その間、近くにあったお店の人たちが時間つぶしにつきあってくれた。なんと、フレンドリーな人の多いこと。記念に写真を撮らせてというと、カメラを向けているあいだだけ表情が硬くなったけれど、笑顔の素敵な人たちだった。おばさんがクメール語で話し、それを白いシャツの男の子が英語に訳してくれ、もう一人の赤いシャツを着た男性は多少の日本語で笑わせてくれた。大学で教鞭をとっているらしい。日本にも研究で来たことがあるといっていた。またどこかで会えたら、おもしろいね。 そうして、いよいよ帰国当日。彼の地は土砂降りの雨。午前中はマッサージ店へ行き、そのあとソバーンさんとランチへ行った。いろいろ話しているうちに時間はあっという間に過ぎ、気がつくと飛行機のチェックイン・タイム。慌てふためくわたしを見て、その日の朝せっかく綺麗に散髪してきたソバーンさんだったが豪雨の中をトゥクトゥクを飛ばし、飛行場まで送り届けてくれた。彼の整っていた髪は乱れ、服もびしょ濡れ。飛行機に間に合ったのは、彼のおかげだ。 ソバーンさんは、わたしと違って英会話もかなりのもの。大学出の彼は近く、ガイドの資格も取りたいのだと目を輝かせていた。もし彼に会ったら、よろしく伝えて下さい。 旅先での人との出会いはとても大切だ。それが旅の思い出を美しくしてくれたり汚れたものにしたりする場合がある。今回の旅では念願の遺跡を堪能できたことはもちろん、数日間行動を共にしたソバーンさんの人柄も良かったし、彼との出会いによってさらに数人の親切な人々とも交流できた。わたしは、彼に出会えてとてもラッキーだった。彼は、旅に彩りを添えてくれたのだった。 P5081358                                                                                                                                                     <カンボジア旅行記・完> [E:horse]芦谷有香と行く北海道の牧場と競馬観戦ツアー

Life in SiemReap (シェムリアップの人々の生活)

P5101351カンボジアは長きにわたってフランスの植民地だっただけに、建物などにその趣を残すところがある。ただし、フランスの香りは残っていない。長かった内紛時代に消えてしまったのかもしれないし、インポート文化という面においては中国やタイあたりから入ってきたものが多いように感じられた。 P5101349P5101350 ここは地元の人々が行く大きな市場で、センター・マーケット。新鮮な野菜からお惣菜まで売られており、なかには「虫」の素揚げもあった。当地ではおやつとして食べるようだ。聞くと、その種類こそ分からなかったが、クモも食すという。1匹、500リエル。約120円ほどか。美味しいという人もいれば、苦手な人もいて、それぞれの嗜好による。また、ふ化寸前のあひるの卵を茹でたものも売られているところがあるそうだ。ふ化寸前・・・見るだけで、倒れそう(笑)。 P5111434レストランの料理は、日本人の口に相当に合うと思われる。揚げ春巻きや焼きそば、各種スープや野菜炒めなど、懐かしい味のするものばかり。わたしが最も気に入ったのはカレーで、具沢山なうえ旨味が生きていて美味しかった。写真は、ヤシの実にをくりぬいた器に入った野菜カレーと当地のビール。 P5111432街中で最も見かける乗り物はバイク。次にトゥクトゥクとタクシー。そして、たまにピックアップトラック。相乗りタクシーのようなもので、これはひと家族だけが乗っていたようだが、首都プノンペンまで行くピックアップトラックもあるそうだ。現地の人たちの、ひとつの足である。 P5101355宿泊したホテルの近くに、ひときわ目を引く建物があった。屋根に仏の顔が置かれている。子供病院なんだそうだ。朝は、長蛇の行列ができるという。オーナー院長は慈悲深く、全ての子供たちを無償で診療しているそうだ。 院長は楽器をたしなみ、隣に建てたホールでたまにコンサートを開くという。音色で心を癒し、その手と技術で病気を治す。世の中に、こんな人がいたのだ。資産があるからこそできることだろうが、資産のある人がみんなそのような志を持てるかといったらそうではない。  観光面では派手になってきたシェムリアップであるが、まだまだ貧しい人々のほうが格段に多い。その人々の命を、どれほど救ってきたかしれない。 [E:horse]芦谷有香と行く北海道の牧場と競馬観戦ツアー

Bateay Kdei in ShimReap (バティ・クデイ)

P5111337「バンテアイ・クデイ」にやって来た。「バンテアイ(Banteay)」とは「砦」、「クアイ(Kdei)」は「僧房」を意味する。ヒンドゥ教の寺院として建てられたが、その後、ジャヤヴァルマン七世によって仏教寺院に造り替えられたという珍しい寺院である。東楼門では、四面の仏陀が出迎えてくれた。 P5111341P5111370                                                                        ナーガの欄干を通ると、そこには「踊り子のテラス」がある。テラスの前面には、たくさんの「シンハ(獅子)」の像が人間の煩悩を見透かすかのように立っている。 P5111342P5111345P5111349                                                                  造形の美しさはほかに負けず劣らずで、周囲を壁が四角く囲い、内に十字回廊が施されている。 P5111357中央祠堂の近くには、「ヨ二」がまるで台座のようにして置かれていた。「リンガ」はここでは見当たらなかった。 P5111358P5111359P5111361 傷みが激しく、多くの箇所が崩壊していた。観光客もほとんど訪れていないようで、出くわしたのは白人4、5人と中国人のツアー客1組だけだった。ただ、この敷地内にはいまでも多くの僧侶が暮らしているという。伽藍で修行しているのだろう。 P5111363P5111356                                                                                  壁面のいたるところに「デバター」が彫られている。「女神」たちはそれぞれの衣をまとい、ヘアスタイルもさまざまである。アクセサリーも各々が違い、たくさんのデバターに囲まれて立っていると、あちこちから華やいだ笑い声が聞こえてきそうだ。                                                                                                                           P5111366 このデバターだけは、どうしても泣いているように見えて仕方がなかった。かつては壮麗だった寺院の崩壊を、嘆いているのかもしれない。                                                                            

East Mebon in Siem Reap (東メボン)

P5111403最後に訪れた遺跡は「東メボン」。アンコール・トムを中心にして、南に位置するのがアンコールワット、東西にはかつて貯水池が造成されていた。東メボンと西メボンがそれにあたり、東メボンは現在は枯渇してしまっている。この東メボンはかつて、池に浮かぶヒンドゥ教寺院だったのだ。                                                                                                    P5111399P5111409                                   例によって急な階段を上がり振り向くと、けっこうな高さがあることが窺える。建造されたのは、952年。煉瓦、砂岩、ラテライト(紅土)の三種が使い分けられ、ピラミッド式に建てられている。 P5111400P5111404中央祠堂の四方を小さな塔が囲んでいるここは、かつてゴールデン・マウンテンと呼ばれていたそうだ。 P5111408P5111412P5111414 入り口が閉じられている経蔵と神が祀られている主祠堂が、静かに時を刻んでいる。 P5111407先に書いた、自ら「写真を撮ってくれ」といい、撮影後に金銭を要求してきた女の子とは、ここで出会った。年の頃は、10歳前後だろうか。  最近になって知ったことだが、どうやら彼らは“モデルとして働いている”らしい。トンレサップ湖で出会った少年少女たちも、だ。ただ、それならそうと言ってくれなければ分からない。  アジアでは“街角モデル”は多く、湖で会った少女のように蛇を首に巻き付けて記念撮影し、その料金を徴収するケースがよく見受けられる。数年前、ドバイでさえ、数十cmも伸ばしたヒゲを丁寧に撫で付け海賊のようにカーヴさせたおじさんがいたが、写真を撮ってもいいかと聞くと、金額を告げて来た。それはそれで、アリだと思う。  ただ、やはり腕のないことを商売にしたり、汚れたシャツを着て「学校に行きたい」と同情を買う方法は好きではない。もっとも、新しいTシャツを買えないから“モデルとして働いている”のだろうが・・・そう考えると、手に用意した小花がいじらしい。野に咲く花を美しいと感じる心は同じで、せめてそれで自分を飾ろうと摘んできたに違いない。  どなたか、彼の地でそんな少年少女らに遭遇したら、“商売としてのコミュニケーション”の取り方を教えてあげて欲しい。たとえば、まずは少しでも会話を楽しんで、そのあとに「わたし(僕)はモデルなの。○○ドルよ。撮影はいかが」と持ちかける、など。金銭を与えるのではなく、知恵を授けてきて欲しい。  でなければ、いつまでたっても施す者と施される者の構図はなくならない。施される者は足蹴にされることも多く、それは人間として成長する上で心や性格に影響を及ぼしていくだろう。 P5111413太陽は全世界の人々を平等に照らすが、カンボジアに射している希望という名の光はまだまだ小さい。

Ta Plohm in SiemReap(タ・プローム)

P5111378 「タ・プローム」。いまでは「ブラフマー翁」と呼ばれているが、建てられた当初は「王家の僧院」だったと聞く。ジャヤヴァルマン七世が母親のために創建した仏教寺院で、しかしのちにヒンドゥ教の寺院に改宗されたそうだ。「バンテアイ・クデイ」をヒンドゥ教寺院から仏教寺院に変えたジャヤヴァルマン七世は、逆のことをされたわけだ。 東西は約1km、南北約700mの巨大な敷地では、遺跡を栄養にして生きているかのような巨木が数多く見受けられる。 P5111379P5111396P5111389                                                                                             P5111375樹の名称は「スポアン」といい、ガジュマルだ。自然の力を研究するため、樹々の伐採や遺跡の修復をあえてしていないのだという。                                                                                                                                                          P5111394P5111387P5111382                             樹々が遺跡を“浸食”していないところの傷みも激しく、いたるところに崩れ落ちている。これらを目にすると、樹々は遺跡が壊れてしまうのを防ぎ守ってくれているような気がしてくるから不思議だ。だが、現実は違う。ガジュマルの種を食す鳥たちが遺跡の隙間に糞を落とし、そこからガジュマルがまた新たな生命を得ていたからだ。ガジュマルは高さ20mにも成長する植物で、遺跡の上で成長を始めたガジュマルの根は下へ向かって垂れ下がり、地面に着くとそれがいくつもの支持根となって互いに絡み合い、成長し続けるのだ。                                                                                  P5111398    樹の根は遺跡の中に入り込み、廻り込む。この姿は、やはり遺跡を支えてくれているように思えてならなかった。                                                  
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